music therapistである妻(本邦初登場)が地元で格差社会をテーマとしたパネルディスカッションに参加を要請されたとのことで、我が家には「競争」「格差社会」について論じた文献が転がっている。日ごろは手に取ることがない「人間会議」「SIGHT」といった評論誌を、週末にパラパラと斜め読みした。
記事の中で印象に残ったのは、最近の小学生の運動会のあり方を批判して述べた、「足が速いのも才能、足が遅いのも才能」といった発言と、「人を育てていく上では評価軸を一つにするのではなく、多面的に見ることが大切」といった発言。日ごろ考えていたことと重なったため、考えを刺激された。
妻は仕事柄 physically/mentally challenged な population と時間を過ごすことが多いのだが、常に言っているのは、「彼らは何かが欠けているのではなく、多くの人とは違った「個性」をもっているに過ぎない」ということ。
確かに、何か「こうなければならない」という姿を一元的に定義して、人のことを「減点法」でみると、彼らには何かが足りないと見えるのかもしれない。しかし、ありのままの姿を「加算式」で見ていくならば、その姿そのものが一つの個性であるとしか見えてくる。このように考えるのはきれいだが容易ではない。実際に、彼らの両親自体がそういう見方をできていなく、妻が彼らにそのような言葉を伝えると、強く感動され、子供との接し方を大きく変えるようになったことも少なくないそうだ。
僕が通ったイギリスの小学校の体育の授業は、今から思うとよく考えられていた。例えば秋はサッカー、冬はラグビー、春はクリケットをやるのだが、能力別でクラスを3つくらいに分ける。一軍は選抜チームとして遠征し大会にも出場し、活躍した選手は華々しく表彰される。興味深いのは、その他の人たち。ここでは毎年、"Egg Cup" と呼ばれる何でもありのサッカー大会が催されている。そこではゴールをすることだけでなく、面白いことをやったり、人を蹴飛ばしてファールしたりすることも(遊びの範囲で)表彰の対象となる。だから、足が早くもない、体格がいい男の子が、毎年「ファール王」として華々しく表彰されていたりもした。それを上手にマネージしたのは、常に皆に遊びやスポーツの楽しさを強調してくれた先生のお陰だと思う。クリケットでは、一軍以外はテニスボールとテニスラケットでやり、満塁ホームラン続出だったりもしていた。
小学生の運動会で競争をさせないということもまた、implicitに「足が速いのがよいこと」という評価軸を押し付けている気がする。
運動会についての僕の「解決策」は二つ。
① 事前にタイムを図らせて、早い順に並べる。そこで5人ずつ走るようにする」というもの(すなわち、早い子は早い人同士で競い、遅い子は遅い子同士で競えばよい。毎回順位が微妙に変わるくらいに実力が拮抗しているのが理想。実世界の競争は、多くの場合絶対的なもののではなく(例えば、我々がオリンピック選手と走ることはなかなかない)、相対的なものに過ぎないのだから)。早い子を表彰するだけでなく、楽しく走れた子、一番びりだった子にも何かあげることにする。
② 競技科目を個人の純粋な身体能力のみを問うものから、チーム競技や、身体能力以外のものも競うものを入れることだ(例えば、イギリスではティースプーンの上にゆでたまごを乗せて走るレースがあった)。
勝ち負けはどうでもいいけど、競争というものから人為的に子供を排除するのもよろしくない。資本主義の根幹にあるのが、競争を通じた動機付けと価格決定、そして資源の配分機能である。それは完全ではなく補完しなければならない側面も多々あるが、今のところ知られている社会経済システムのなかではもっともよく機能しているものだ。とすれば、現在の世の中で生きて行く以上、ある程度の競争は避けられないし、競争を人為的に学校の生活のなかから取り除くのは、実社会のなかで大きな位置を占めるものから、子供たちに目をそむけさせていることにしかならない。
重要なのは、世の中には競争がありその都度、勝ち負けがあること、ただ競争も評価も様々な軸においてありうるものであり(絵が得意な子、忍耐力がある子、優しい子、などなど)、一つの軸で優れていることだけが立派であるわけではないこと、そして個々人としては自分が何においてなら相対的に秀でているのか、自分なりの強みを見つけて、それを伸ばしていこうとすることではないだろうか。
これは子供の教育だけでなく、職場で同僚や部下と接するとき、あるいは自身の生活のなかでの幸せを探していく場面でも同じだと思う。一つの軸ではなく、多面的な強さや豊かさを求めていき、弱さや上手く行かないことはそれで補う。そんな多様な豊かさをembraceできることが、よりよい社会実現のための第一歩なのではないだろうか。
イギリスではタクシーの運ちゃんも全ての通りの知っていることを誇りにして仕事をしてると聞きました。ちょっとでも通りを間違えるとお金を返してくれる。
収入や資産より自分の仕事に誇りを持つを最優先する欧州の考え方は学べます。
格差社会の対応はうらやましがらない妬まない。自分の軸を持つということではないでしょうか?
欧州のおっさんと話しててそんなことを感じました。
まじちょっと出張長過ぎで飽きました。早く帰りたい
投稿情報: こ | 2006年9 月13日 (水) 06:57
運動会についてのコメント、すごくわかります!最近では小学校の運動会からリレーやら徒競走が排除された、とかそういう話を以前聞いて、そうすることが何の(本来的な)解決につながるの?と相当疑問に思ったものです。解決策①も②もとっても良いと思います。勿論、全員が何かにすごく秀でているとまではいかなくても、そういったいろんな種類の競争の中で自分が何かが出来ることに気づいて自信をつけるというのもすごく大事なことですよね。ただただすべての競争を避けていたら、’何か’を頑張るmotivationもそがれるし、自分が’何で’得意なのかを見つけるチャンスが失われてしまう可能性もありますからね。
投稿情報: K | 2006年9 月12日 (火) 22:45
イギリスの体育の授業!
面白いですね!
競争を排除するのではなく、
みんながそれぞれ得意のフィールドで競争できるようにする、、、
いいアイディアだと思います。
人を加算式で見る、という考えもすごく刺激を受けます!
投稿情報: HOLICな祐介 | 2006年9 月12日 (火) 21:51