子どもの頃から、何かをしながら別のことをするのが得意だった。
小学生の頃はピアノの練習をしながら、譜面台にマンガ(奇面組、キャブつばなど)を広げて読みながら、そばで遊ぶ弟と話をしていた。日本に帰ってからは、自転車に乗りながらカレーパンを食べていたら、同級生の女の子たちに「ばーか!」と叫ばれてショックを受けた。確かに、かなりはしたない買い食いでみっともなかった。リップルウッド時代は、夜、デスクで出前のお重を食べながら、スピーカーフォンで私用電話をしながら、収支モデルをたたいていた。
そんなお得意の「ながら」体質が、ここのところ不調だ。妻の話を聞き「ながら」、本を読んだり音楽を聴いていたら、そのときの話題がまったく記憶に残らず、ちゃんと聞いていなかったことを指摘される。ワタシの話、聞いていないのね。悲しい。週末はなるべく家で仕事をしようと思って、子どもを膝の上に乗せて遊び「ながら」パソコンを叩いていたら、途中から絶叫された。しまいには、「ちゃんと面倒もみないのに、中途半端に家にいられるくらいなら、外に行って欲しい」といわれる始末。
忙しいと、ついつい同時に色々なことを達成しようとしてしまうけど、結果的にすべてが中途半端に終わってしまうことは少なくない。何も残らないくらいなら、思い切って対象を絞りこんで、それに120%チカラを注いだ方がいいに違いない!そう頭では分かってはい「ながら」も、今日もまた同時進行でいくつものことをしてしまう自分がいる。
自分にいまもっとも必要なチカラは、「あきらめるチカラ」なのかも知れない。それは決してあきらめて失う、というのではなく、「あきらめてもっと豊かになる」ためのチカラなのだろう。
幼少の頃 忙しい父と会話は交わさなくても 父が家に帰ってきているというだけで家の中が暖かく感じられ、安心感がありました。
家の中に父親の気配があるというだけで、お子様は嬉しいと思います!
投稿情報: ユリ | 2007年4 月 9日 (月) 23:28