「お父さん、何のためにべんきょうするの?」
そんな問いを、うちの子どもが投げかけてくるまでは、まだ若干の時間的余裕がありそう(今はまだ「にゅーにゅー(牛乳)」「わんゎん(犬)」くらいしか言えません・・・)。
それでも、いざそのときになったら自分も相手も納得するような回答ができるのか?まったく自信がない。
以前からそんな問題意識を持っていたので、今朝の日経新聞一面での特集記事で論じられていた「何のために学ぶか?」という問題は、興味をもって読み、また非常に考えさせられた。
例えば、簿記のような実用的なスキルや、特定分野の知識を身につけていれば、自然と仕事をする上でのチャンスは拡がる。そんな「結果」がすぐ目にできるものについては、明確な目的意識をもって勉強できる。
しかしここで考えたいのは、すぐには役にたたなそうな、歴史、科学、哲学、文学、音楽といった、リベラルアーツ=教養の類のものである。なぜ、これらを学ぶのか?
自分なりに考えた出した仮の答えは、
「自分自身がより豊かに人生を生きるため(そのチャンスを拡げるため)」。
一つは、より高い感性と理解力と、多様な表現手段を持つことによって、これから人生で出会う多くの人とより深いところで繋がり合うため。
一つは、人生を生きていく上で迫られる様々な意思決定の局面において、適切な状況判断をする判断力を身につけるため。
一つは、知的好奇心を充たしたり、芸術作品を堪能することができることによる一種の快楽を得るため。仮に現在それを感じることができなくても、将来、自身がもっと成熟したときに違った感覚で味わえることもあるので、今のうちから素地を作っておきたいものだ。
一つは、自分が住んでいるこの世界の成り立ち(i.e. 歴史)や自然法則(i.e. 科学)について理解を深めるため。これは突き詰めれば、自分自身についてよりよく知ることであり、ひいては自分自身が生きているこの世界と人生の意味合いについてよく知るため。
一つは、先人たちが得てきた知見を、確実に発展させ、自分たちの子ども世代に伝え継ぐため。
まだ整理できていないのですが、そんなことを考えてみました。子どもが大きくなるまでには、自分のなかでももっと整理して、説得力のある言葉で語ることができるようになりたいと思っております。
こんにちは。藤野と申します。
MBA留学記を拝見して以来、ちょくちょくお邪魔しています。
以前自分のブログで、「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」という話題が巻き起こりましたので、今回のエントリ、面白かったです。
私は四番目の「知の継承」派ですが、皆さんのコメントも個性的ですね。
http://d.hatena.ne.jp/why-newton/20070123
http://d.hatena.ne.jp/why-newton/20070124
投稿情報: 藤野繁 | 2007年2 月23日 (金) 12:48
はじめまして。楽しみに拝見しています。
哲学的な問いかけですね。私もこの記事には目を留めました。これまでにも旧制高等学校における教養教育などにふれる記事がありました。特にライブドア・村上ファンドに象徴される拝金主義的な動きを考えるとこのような教養の重要さについて若い人が少しでも認識する必要があるのではないかと思います。
私も目的志向の人間ですので常に行動に理由と目的を求めてしまいがちなのですが、年をとるにつけ行動自身のもつたのしさ、満足感のもつ重要性を感じます。その意味では教養のもつ重要性はどんどん大きくなっていきます。人生の残りが少なくなればなるほど実利より理想、より普遍的で人間的なものに惹かれていくのでしょうね。
岩瀬さんのかかれているように教養を通じて自分自身の世界を広げること、共通の価値観を持つ方と喜びを共有すること、
そのすばらしさを経験するために学びがあるということは一つの理由として間違いないと思います。
投稿情報: イッセ- | 2007年2 月 9日 (金) 16:03
私は学ぶ意義についてこう考えています。
「人生をより楽しく生きるため」
政治・経済・文化・・・、世の中の出来事に対して自分に知見があれば強い好奇心をもって見ることができます。
例えばJAZZに精通している人だったら、街角やバーなどでふと耳にした折、その曲を知らない人と比べて何倍も興味をもって楽しく聞けることができるのではないでしょうか。。
旅行をした際、その土地の歴史を知っていれば、その土地固有の風習文化により興味をもって楽しく見て回ることができると思います。
投稿情報: yasu | 2007年2 月 9日 (金) 14:50
学びとは、生物の遺伝子に刻み込まれている、ある種の本能なのである。
そもそも「学ぶ」というのはどういう意味なのでしょう?
例えば免疫細胞というのは「学習」します。
一度体内に侵入した異物を次は瞬時に反応して撃退します。
これは遺伝子に刻み込まれたレベルであります。
つまり、学ぶとは生きることそのものであり。
学ぶことをストップするとは生きることをストップすること。
たくましく生きるためには学び続けることなのだ。
息子がいたら2歳になる前からそうやって叩き込んでやろうと思います。
刷り込みです。
投稿情報: ごりらいも | 2007年2 月 9日 (金) 03:05
こんばんは、いつも興味深く記事を拝見させてもらっています。
もう一つ足すとすれば、学ぶという作業を通して「学ぶスキルセット」を養うためではないでしょうか?
何か自分で学ぶためにはどうやれば学ぶことができるのかということを知らなければできず、それに関する経験を積むため。
その一方で、現在の日本の教育が果たしてこの「学ぶ」という目的に合致したものか、とても多くの疑問も持っています。
本来の目的を突き詰めているのか、価値を与える人(=ちゃんと教えられる先生)にちゃんとしたインテンシブを与えられているのか。
子供に「学ぶのは~のためだよ」と伝えて「でも学校ではこうだよ」と否定されるような教育ではなく、「そっか、だから勉強しているんだ」と納得してもらえるような教育システムを作りたいものです。
投稿情報: KT | 2007年2 月 9日 (金) 00:41