格差社会問題について考えたこと。
「資本主義社会の下では、競争の結果、格差が生まれるのは当然。ガタガタ言うな」という乱暴な議論も、
「世の中には、働けど、働けど、生活が回らない人たちがいる(→取材した具体的にかわいそうな人たちのケースを取り上げる)。小泉路線がこのような格差を生んでいるが、これが私たちが望む社会だろうか?」とかいう個別事例を元にした感情的な議論も、
いずれも、すっと落ちない。
週末に何冊か本を読んでいて少しだけ考えが整理されたのだが、大切なのは
・ 格差があるかないかの議論 でなく(ある程度はある・拡大してるに決まっている)
・ 格差がいいか悪いかの議論 でもなく(いい面も悪い面もあるに決まっている)
・ 「格差」という極めて曖昧な言葉であらわされている問題のうち、どの部分が(資本主義的な競争による社会の進歩という相反するニーズとのバランスで)我々が真剣に取り組むべき構造的な社会問題であるかを切り分け、
・ それに対して具体的にどのような打ち手が、政府および民間レベルで打てるか、
であろう。
例えば、やる気がなくてダラダラしている人たちが、一所懸命働いている人たちよりも収入が少なくなりうること は「格差」の問題とすべきでないのは明らか。(このような人たちに対して手を差し伸べるニート対策のような課題は、あるのかも知れないが)。
問題があるとしたら、やる気もあって一所懸命努力している人たちにとっても、構造的に move up する social mobility が欠けていることだろう。
つまり、「いい学校」に行かないと「いい仕事」に就けない、ある程度経済力がないとそもそも「いい学校」に入れない、ということがあれば、それは問題だ(例えば、東大学生の両親の平均年収が1千万を超えていることはその例なのだろうか)。
この点については、アメリカにいる頃によく議論した。クラスでは、「大学に行くのは親族郎党で自分がはじめて」という人も数名いて、彼らに「この国ではまだ強い意志さえあれば社会的に成功できる、アメリカンドリームが生きている」と力説されると、反論しようがなかったりもする。
実際、東大にも、地方の公立高校から入学している人たちもたくさんいたし、授業料も(米国の授業料や、家庭教師などのアルバイトで得られる収入と比較すると)そこまでは高くもなく、表面的には、門戸は開かれているようにも感じたのだが、それも印象で語っているに過ぎないので、具体的には公教育の充実や、奨学金制度などの拡大が検討課題となるのだろう。これは政治レベルできちんとした問題意識さえあれば、実現は十分可能だろう。
もう一つの問題となるのは、リストラや病気など、unexpected happening の結果、社会的に行き詰ってしまう人たちへの対策。例えば、生活保護まではいかないが、健康保険料が払えない微妙な所得水準の人たちが、きちんとした医療サービスが受けられずに困っているという記事を読んだ。病院に行くお金がなく、家でどんどん病状が悪化してしまっている。日本の健康保険制度は素晴らしいのだが、どこかに落とし穴というか、見落としてしまっていて、十分な医療サービスを受けられない人たちがいないか、再度検証が必要だ。
また、失業保険は僕も数ヶ月給付を受けるために職安通いをしていたことがあるので、よく分かるのだが、思いがけず失業した人にとっては、なんとも言えずありがたい、初めて政府のありがたみを分かる制度だ。モラルハザードが常に伴うので難しいが、上手な運用(単純に「拡充」とはいえない難しさがある)を続ける必要がある。
そうはいってみたものの、生活レベルで日本は本当に豊かだと思う。歩いていると、ぴっかぴっかの公共建物が建っているし、うちの近所では山の手通りでまた高速だか地下鉄の工事をやっている。これ以上便利にする必要が、どこにあるのだろうか?そんなお金があったら、ほかのところに使えないの?
政府だけでない。民間レベルでも、例えばコンビニが24時間営業する必要が本当にあるのかとか、宅配をあんなに細かな時間を区切ってやる必要があるのかとか、そのような過剰ともいえるサービスを実現するために、下請けトラック運転手など、社会的なbarganing power が弱い人たちへものすごいしわ寄せがいっている実態を知るにつけ、疑問に感じる。どこまでも過剰に利便性を追求する我々の社会は、どこへ向かっているのだろう?
ここらでちょっと一息ついて、利便性を多少犠牲にしてでも、よりバランスのいい社会を作ることを皆で考えられたらいいのに。
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