「株主を重視しない経営」(日本経済新聞社、江川雅子著)を頂いた。
これまでのコーポレートガバナンスの議論では、日本企業が株主を重視してこなかった理由として、①間接金融が中心でメインバンクが経営者を規律づけてきた、②株式持合いの弊害、③日本企業は従業員が力をもち、内部昇進した経営者が力をもってきた、といった理由が掲げられてきた。
これに対して本書は、「戦後日本企業の経営者が株主を重視しなくなったのは、株式市場の機能不全(発行市場の欠陥と、株価形成の非効率性)と投資家の短期的・投機的傾向が重要な要因である」という自説を、実証的に展開している。
そこで、考えさせられた。なぜ、米国の経営者は、株主を重視するようになったのだろうか?
いくつか考えたこと:
- 米国の経営者は決して『株主』を重視しているわけではなく、『株価』を重視しているにすぎない。なぜなら、自分たちの報酬の大半が、株価に連動しているから(ストックオプションの普及には、80年代以降のLBOブームと、それによる「経営者市場」の発展があった)
- 従業員や一般国民も、401Kなりストックオプションなりで資産の重要な部分を株式で保有している。したがって、株主を重視することはすなわち、従業員や国民の利益を重視していることにもなる
- もう一つは、「株価をファンダメンタルズよりも割安に放置しておくと、買収されるかも知れない」という恐怖感も、株価向上のための強烈なインセンティブとなっている
結局、経営者のインセンティブがもっとも強烈なドライバーではないだろうか。経営者はとにかく株価を上げることに躍起になるが、それは短期で株価向上に繋がるような経営改善と、その経営内容の情報公開を通じて行われる。
米国の経営者が本当に大切にしているのは、株主である投資家ではない。株主である自分、もしくは経営の座に座り続けたい自分である。その点においては、本質的にはわが国とも変わるところはないのではないか。
株主重視の経営が叫ばれているが、どれだけ制度を変えたところで、経営者が個人レベルで株価上昇のインセンティブを持たない限りは、本当の意味で普及させることはできない。
その意味で、資本主義を支えるもっとも強烈なドライバーである「個の利潤の追求」というものも、ここで上手に使わない限りは、わが国でも永遠に株価重視の経営が普及することはない、と考える。
今日の記事には賛成。
あと日本の大企業の取締役は商法上の責任に比して、報酬が安すぎるとも指摘できると思います。
医師でも官僚でもそうですが、責任を多く求める割に報酬を取るのはけしからん、という国民意識が根っこにあるのでしょうな。
投稿情報: たに かず | 2008年7 月12日 (土) 10:40