ある平日の夜。自宅で湯船につかりながら、ふと思い出した。
まだボストンにいた頃、あの外国の平べったいバスタブ(しかも我が家のは栓がきちんと止まらず分速350mlくらいのスピードでお湯が抜けていくのだったが)に寝転がり、かろうじて体全部をお湯につけながら、日本のお風呂を恋しく思い出していた。日本に帰ったら、毎晩たっぷりのアツアツのお湯に漬かることができる!なんて日本人は幸せなんだ。早く東京に帰りたいよぉ。
ボストンの寒く乾燥した冬がそんな想いをいっそう強くさせていたのだろうが、あのとき思い描いた自宅の風呂の情景は、学生時代にスキーにいった冬山で、降りしきる雪のなか入った露天風呂そのものだった。
それが、東京に戻ってきてからというものは、おそらく最初の数日でそんな湯船への想いは消え去り、今では歯を磨くのとさして代わりのない、日常の一場面と化している。
同じくボストンにいた頃、時折HBSのカフェテリアでさして旨くもないランチを食べながら、考えた。日本ではなんてことのない定食屋で、あれだけ美味しいご飯が食べられる!あぁ、なんて日本人は幸せなんだろう。東京に帰ったら、毎日噛みしめて食べよう。
案の定、こちらの方も、毎日赤坂の各種ランチスポットで美味しいお昼を食べているのだが、それもまた日常になってしまい、会話に夢中になっていたりして何を食べたかも噛みしめることないまま、食事を終えてオフィスに戻る毎日になっている。
思うに、私たちをもっとも幸福から遠ざけているのは、この「慣れ」だと思う。最初は感動しても、それが日常になってしまうとそれはあって当然のものと思うようになり、なんらありがたみを感じることなく、次なる幸せを求めてしまう。どんなに眺めがよい豪華なオフィスに引っ越しても、毎日夜までそこで過ごしていると、そこにいるのが億劫になってしまう。毎日高級寿司を食べていたら、どんなに美味しい寿司を食べても、それは毎日コンビニおにぎりを食べている人が感じるものと変わらなくなる。どんなに美人の女優と結婚しても、おそらくすぐに慣れてしまって、美人であることはなんらメリットでなくなってしまう(のではないか、女優と結婚したことないのであくまで推定)。次の幸せのための飽くなき追求は、掘っても掘っても掘り続ける、もぐらのようなものだ。
逆に、当たり前のものを奪われていたときに、それを手に入れたときの喜びも思い出す。中学時代の夏、サッカー部の練習中。水を飲むのはいけないとされていたため、数時間汗びっしょりで走り回りながらも、水を飲むことが禁止されていた。その禁が解かれたときの、あの潤い!砂漠でオアシスを見つけた旅人の気持ちを、味わうことができた。あるいは、海外から久々に帰国したときの、あの和食の美味しさ。快楽ともいえる天にも昇る気持ちは、普通に暮らしているとなかなか味わえない。
だから自分に言い聞かせたいのは、don't take anything for granted ということ。いま自分が当然としている生活、身の回りの人たち、すべてが毎日リセットされ、まっさらな気持ちで味わうことができるならば、毎日が潤うに違いない。こんなに素敵な人たちと一緒に時間を過ごせるなんて。こんなに美味しいものをお昼に食べられるなんて。こんなワクワクするプロジェクトに取り組めるなんて。こんなに過ごしやすい季節を堪能できるなんて。つらいことだってあるし、悩みだってあるけど、何もないところから比べれば、それもすべて贅沢であるということに気がつく。
もしこのような気持ちに、毎日ちょっとだけでもなることができたら、私たちの生活がどれほど豊かなものになることか。
素晴らしい(^^)
投稿情報: r | 2006年10 月13日 (金) 15:09
お久しぶりです。ブログ復活おめでとうございます!ボストンにいる身としては、お風呂(寮住まいだからシャワーのみ)、和食(最近Spanglerスシは改善したが・・)が羨ましい、日常化したなんて贅沢すぎる!と思った。本も日本に帰ったときに買うから、サインしてね(笑)。来週、HP元CEOのCarly Fiorinaが来ます。思わず、回顧録を買ってしまい、今ケースそっちのけで読んでます。元気で!奥様にもよろしく。
投稿情報: Yuki@HBS | 2006年10 月13日 (金) 13:23
ところで目の手術のその後の経過は如何でしょうか?
投稿情報: 病人 | 2006年10 月13日 (金) 11:47
その通り素晴らしい
感謝の気持ちを持って毎日を送りたいものです
投稿情報: こーちゃん | 2006年10 月13日 (金) 00:22